プロフィール(ココロとカラダのエステティシャン誕生物語)

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はじめまして。

サイト運営者のHIROKOです。

このページでは自己紹介をしていきたいと思います。

自己紹介

【名前】 みき ひろこ

【星座】 山羊座

【血液型】A型(父はAB型 母はO型)

【出身地】西宮市

【居住地】神戸市

【家族】 夫と2人暮らし

【趣味】 韓国ドラマ・映画鑑賞・旅行・食べ歩き

【性格】 HSS型HSP(外交的で好奇心旺盛ですが実は内向的で静かな生活を望みます→新しもの好き・チャレンジャーでありながらも非常に繊細で敏感なため、大勢でいると疲れやすいため1人でいる時間を愛しコツコツ作業することを好みます)

【学歴】 神戸女学院大学英文科卒業

【職歴】 商社(社内OAインストラクター、関連会社販売管理システム構築)8年→保険外交員5年→エステティックサロン勤務2年→エステティックサロン店舗経営10年→美容商材ディーラー業→ココロとカラダのエステティシャン

【資格】

日本エステティック協会認定エステティシャン

日本分子状水素セラピー協会水素セラピスト

日本メンタルヘルス協会基礎カウンセラー

【メディア】(店舗経営していたクリニカルエステμミュー) 

・SAVY 2006年4月号エステティシャンがかけこむエステサロン

・Hanako west 2006年7月号関西ビューティー228軒エステサロングランプリにて美白グランプリ1位

・Hanako west 2008年7月号効果が見えるエステサロン200軒

ここから先は、長文につき(約10000文字)お時間のある方だけお読み下さい。

ブログ開設の理由はこちらからどうぞ

ココロとカラダのエステで幸せになるブログサロンCOCOcaratを開設しました
はじめまして。サイト運営者のHIROKOです。 ココロとカラダのエステで 健康で美しく幸せになる ブログサロン【COCOcarat】を開設しました。 ブログサイトを開設することにな...

東京オリンピックの年に生まれたオリンピックベイビーです

甲子園球場近くの産婦人科で産声をあげました

日本国内で開催された最初の東京オリンピックの年に西宮市で次女として生まれました。

予定では、翌年に生まれるはずでしたが、予定より一週間早くこの世にでできました。

(自己紹介の時に東京オリンピックベイビーと言いたくて早く出てきたのだと思います)

もうすぐアラカンになる50代ですが気分は永遠の39歳です。

生まれた場所は、甲子園球場から歩いて100歩くらいの場所にある産婦人科。(今でも、甲子園界隈では有名な産婦人科で、現在は私を取り上げてくれた先生の息子さんが医院長をされています)

自宅住所で調べると、産土神社は福應神社になるのですが、距離的には産婦人科からも近い素盞嗚神社(甲子園球場の敷地内にあります)になります。

当時は、お腹の赤ちゃんの性別が女か男かを判別する技術はまだなかったので、大きい母のお腹を見てほとんどの方が「きっと男の子でしょうね」と言われたそうです。

おまけに、生まれたばかりの時は、両親のどちらとも似ておらず、父が「本当にうちの子かどうか、看護師さんに確かめてみたら?」と言ったとか。(当時は、赤ちゃんの取り間違い事件が多発していました)

きっと、両親の男の子への期待値が高かったのだと思います。

名前はくじで決まりました

名前は、【敬子】と書いて【ひろこ】と読みます。

おそらく、この漢字でこの読み方は、日本でも私だけだと思いますので、きっと世界中では私だけでしょう。

この名前をつけるとき、父が姓名判断の先生に鑑てもらったのですが、名前の候補が3つもあがり、父は悩んだそうです。

当時は、携帯電話もありませんからすぐに母と相談するわけにもいかず、最終的にくじを引くことに。

3回くじを引いて、3回とも【敬子】をひいたとか。

ここで、また父は悩みます。

わたしより、2ヶ月先に生まれたいとこが【桂子】という字で「けいこ」だったのです。

姓名判断の先生に「けいこ」以外で読み方ありませんか?と訊ねたところ、「たかこ」「のりこ」「ひろこ」とも読めますよと言われたとか。

「たかこ」でもなく「のりこ」でもなく、「ひろこ」を選んだ父のおかげで、一度もまともに読んでもらったことのない「ひろこ」になりました。

(敬子の読み方をググったところ、他にも沢山出てきました「あさこ」「いつこ」「きょうこ」「きよこ」「さちこ」「さとこ」「としこ」「まさこ」)

子供の頃は間違って読まれるのが嫌でしたが、今では「ひろこ」という読み方を選んでくれた父に感謝しています。

甲子園から越木岩神社の近くに引っ越しました

1歳半になるまで、甲子園で育ちました。

だからというわけではありませんが、野球のチームとしては、潜在的には阪神タイガースを応援しています。(夫は熱烈な巨人ファンです)

1歳半になる頃、同じ西宮市内の越木岩神社の近くにあった父の実家に引っ越しました。

北の戎と呼ばれる越木岩神社を氏神さまとする場所で、結婚するまでの26年間を過ごした生粋の「宮っ子」です。(「宮っ子」は元々西宮コミュニティが発行している各家庭に配布されている地域情報誌の名称)

お宮参りや七五三は西宮神社でした。

(越木岩神社と福應神社と西宮神社は「西宮三福神」と言われています)

ものこごろついたときには、祖父に手を引かれてよく(ほぼ毎日)神社まで散歩に行ってたそうです。

越木岩神社での子供の頃の思い出は多いのですが、一番の思い出は、人生初の自動販売機で購入したのが、この越木岩神社のおみくじだったということです。(当時、確か一回10円)

幼少期は、夏休みになるとラジオ体操に通ったり、クワガタとったり、どんぐりひろったり、鬼ごっこしたりと神社の境内が遊び場でした。

高校で夫と出会う

小学校、中学校、高校と地元の公立の学校を卒業。

高校1年生の時に、同級生の夫と出会います。

親の言う通りに中学受験(後に通うこととなった神戸女学院の中等部)をしていたら高校で夫に出逢うことはありませんでした。

一方、夫も他の高校を受験していたので、高校の時、同じ高校で出会えたことは、運命だったのだと思います。

その後、2回別れて、25歳の時に再会。

3度めの正直で28歳になる少し前に結婚しました。

20歳のとき訪れた最初の試練

私に訪れた人生の最初の試練は、20歳の時に父が他界でしたことです。

父の肺がんが判明したのは、亡くなる3ヶ月前。

肺がんと診断される半年前に、風邪のような症状で入院したのですが、その時は、肺がんとわからず、一旦退院。

その後、肺がんだと判明したときは、余命3ヶ月と宣告されたのです。

当時は、現在のように本人に告知するという例は少なく、父には肋膜炎であると嘘をついて看病にあたりました。

父の肺がんは胸膜側に広がっていたので、がんの部分を取り除くという手術が出来ない状態だったのです。

父が亡くなる2週間ほど前、さすがに自分の病気が肋膜炎ではないと悟っていたのでしょう。その時、父が言った一言が忘れられません。

「薬を作ってほしい」と。

延命治療もむなしく、余命宣告どおり、肺がんが判明してから3ヶ月後に亡くなりました。

まだ、大学3年生だった私にとって、父の死は人生の終わりかと思うくらいの衝撃でした。

それまで、のほほんと、何の苦労も知らずに生きてきたのです。

幸いにも、父が残してくれたもので、それまでの生活を変えることなく大学も無事卒業させてもらえました。

父と母には感謝しています。

ただ、やはり、一家の大黒柱を失った家の中はグラつきます。

父が亡くなり、しばらくの間、贅沢な買い物をしたり、旅行に行こうとする母を、どこか批判的な目で見ていました。

父が亡くなった寂しさを埋めるために、そして母が平常心を保つためには、必要なことだったのだと今では理解できます。

父が亡くなるまでの私は、両親が理想のモデルでしたから、結婚後は専業主婦になり子供を出産し、夫と子供のために生きようという思考でした。

ですが、父が亡くなったことで180度考えが変わります。

結婚しても仕事を続け、精神的にも経済的にも自分の力で生きていこうと決意します。

(当時の関西は、まだ「寿退職」とう言葉が当たり前の時代でした。一方、DINKSという言葉が流行しだした時期でもあります)

この父の死をきっかけに

「私はなぜ生まれてきたのだろう」と深く考えるようになります。

バブル全盛期に社会人となり物質世界を謳歌する

私が就職した1980年代後半は、ちょうど世の中がバブル全盛期。

企業も、ホテルでクリスマスパーティーを開催するのがあたりまえの時代。

「人生は短い。生きている間に人生を謳歌しよう」と物質世界にのめり込んでいきます。

ただ、いつも心のどこかで

「お金で世の中のほどんどの物は手に入るけれど亡くなった父の命や人の気持ちは手に入らない」と思っていました。

就職した商社では情報システム部に配属されました。

最初の一年間は、社内のOAインストラクターとして、パソコン操作の指導をしていました。

2年目からは、プログラマーとして関連会社の販売管理システムの構築に携わるようになります。

入社して、3年目の春、3年遅れで(一浪&大学院2年)社会人になった夫から電話をもらいました。

夫とは、社会人になるときに、別れていたのです。

この電話がきっかけで交際を再開し、3年後に結婚しました。

30歳直前で夫が東京に転勤

結婚して2年目の秋(30歳になる2ヶ月前)、大阪勤務の夫に東京転勤の辞令がでました。

専門職だった私は、大阪での仕事に未練を残しながらも、一旦、仕事を辞めることを決意します。

阪神大震災が起こる2ヶ月前のことでした。

東京に転勤になり、最初の1ヶ月は、東京に住んでいる同期の家に遊びにいったり、社宅の奥さんとお茶したりで楽しく過ごせましたが、次第に時間をもて余すようになりました。

翌年の4月からは、もとの職場の東京本店での契約社員としての仕事の話(時給2000円)もありましたが、それまで待つのがもったいない気分になっていました。

在宅でも出来る仕事をしようと、パソコン(MacのノートPC)を購入し、翻訳の仕事を受託するべく翻訳会社での通信教育をスタートしました。

そうこうしているうちに、保険会社に勤務する同じ社宅の奥さんから、仕事の勧誘を受けました。

最初は、会社のフラワーアレンジメントのイベントでした。

フラワーアレンジメントを楽しんでしばらくすると、いつの間にか営業部長の面接になっていたのです。

その営業部長は50歳の女性営業部長。

当時で、年収2500万円とおっしゃっていました。

保険会社なら、夫が転勤になっても、また転属という形でキャリアを継続出来るし、公的年金以外にもらえる退職年金が魅力だなぁと考えた私は、2年後にまた大阪勤務へ戻る予定の夫のことを考え保険会社で外交員にチャレンジすることに。

私が担当した職域はレコード会社でした。

在宅ワーク用にと購入したMacのノートPCは、1年後、この時のお客様のもとへ嫁にいきました。

事務畑から営業畑への転職でしたが、仕事は面白く、営業成績もそこそこ優績で、そのままずっと続けるつもりでいました。

保険会社では「21世紀は女性の時代だ」といったような自己啓発セミナーも頻繁に行われていました。

予定どおり、2年後に夫の東京勤務が終わり、大阪へ戻ることになります。

私も1ヶ月遅れで関西に戻りました。勤務先は、同じ保険会社の大阪にある職域センターという支部でした。

担当は百貨店で、既契約者も多く、他の企業担当と比べると仕事はやりやすかったと思います。

大阪の支部で損保の資格を取得したり、FPの資格の勉強をしたりしながら、外交員の仕事を続けていましたが、この頃から生理痛が酷くなり、体質改善目的で、エステサロンに通うようになりました。

日本エステティック協会の理事との出会い

最初は体質改善で通ったエステサロンですが、その後、日本エステティック協会の理事O 先生と出会い、エステティシャンの道を目指すようになります。

O先生を紹介してくれたのは、職場の近くで1000円のタロット占いをしていた先生。

「みきさん、この先生と合うと思います」の一言でO先生に会いに(エステを受けに)行ってみました。

O先生は、1972年に日本エステティック協会が発足した時から関わっていた日本のエステティック業界のパイオニア的な存在。

エステティックサロンと美容室を経営され、化粧品メーカー等に講師として呼ばれるような先生でした。

O先生が経営されていたのは、ボデイとフェイシャルエステ、ヘアメイクまでしてくれるトータルエステティックサロン。

O先生のエステを受けに行った初日に、美容師の免許を取りながらサロンで働くようにお声をかけていただきましたが、まずは、自分の体質改善を優先したかったので、一旦、お断りしました。

その後も、O先生のサロンへ、定期的に通い、通っているうちに「私もこんな仕事がしたい」と思うようになります。

しばらくすると、保険会社の同僚に「芦屋で新しく開業したサロンがあるからいってみない?」と、お誘いを受けました。

最初は、一顧客として通っていたのですが、そのオーナーから営業力を見込まれマネージャーとしてリクルートされました。

芦屋は、昔から馴染みのある街でしたし、通勤も大阪のO先生のサロンに通うより、近いという理由で、転職を決意しました。

そこから、私のエステティック人生がスタートしたのです。

エステティシャンからサロン経営へ

芦屋で勤務することになったエステサロンのコンセプトは「素肌美人になりましょう」でした。

扱っていた商材は、沖縄の「顔をあらう水No.1」シリーズ。

メーカーの神山社長が毛深い自分の顔脱毛のために開発した脱毛パックのアフターケア用の商材です。

最初の仕事は、デパートの沖縄物産展イベント。

この商材は、片腕を洗うという体験販売をするので、まだエステティシャンとしての技術がなかった私でも、対応出来る仕事でした。

エステで必要となるカウンセリング力は、保険会社時代に培われていましたし、技術の習得と並行しながら、物販販売も楽しく仕事をすることが出来ました。

芦屋のサロンで働きだし半年くらい経った時、オーナーが乳がんを発症。

既に、ステージ3でした。

オーナーは当時の日本では、まだ数少ないカテーテルによる血管内治療によって奇跡的に乳がんを克服。(その後も17年延命されました)

オーナーが治療に専念されている間、店長としてサロン経営をまかされることになったのです。

その後、一年後にオーナーがサロンを閉める決意をされたのをきっかけに、独立開業することにしました。

最初は、マンションエステをするつもりでしたが、当時のお客様に、とある美容室を紹介していただきました。

美容室の場所は、芦屋神社からJR芦屋駅に繋がる道沿い(おそらく日本で一番外車が通る道)に建っています。

芦屋のセレブ達が通うその美容室は、1階が美容室店舗で、2階部分は教室用に使用されていました。

約15坪ほどの広さの部屋で、ミニ冷蔵庫とミニキッチン付き。

電動マッサージ付きのフェイシャルベッド2台と電動式のボデイベッドが1台と革張りのソファとテーブルがありました。

私がお借りする2年前までは、整体の先生に貸していたそうです。

ベッド等の備品を購入する費用が抑えられる上に、内装もそのまま使用出来るといった、またとない好条件でお借りすることが出来ました。(全て自分で用意するとなるとさらに500万円くらいは必要だったと思います)

こうして、不動産屋に行っても見つけることの出来ない、素晴らしい場所を格安でお借りすることが出来ました。

この時、サロンの事業計画書を作成していったのが懐かしいです。

人生2度目の試練〜リーマンショックとパンデミックインフルエンザそして母の入院

2000年の11月にサロンの賃貸契約を結び、翌年から本格的に店舗営業を開始しました。

サロンコンセプトとしては、以前働いていたサロンと同じ、「素肌美人になれる」サロンです。

商材は「顔を洗う水No.1」に加え、プラセンタ原液を取り入れました。

今でこそ、プラセンタ原液は、一般の方にもその美容効果が広く知れ渡り普及していますが、当時は、まだ扱っているサロンは少なかったようです。

(当時は、狂牛病が流行したせいで、従来の牛由来プラセンタから豚由来プラセンタに移行して間もない頃でした)

「芦屋は口コミの街だよ」という、美容室オーナーの言葉をヒントに最初の一年間は、広告を一切出さずに、手作りのチラシを配ったり、近隣の飲食店にショップカードを置いてもらったりと、アナログで地道な宣伝活動を頑張ってみました。

スタッフにも恵まれ、お客様にも恵まれ、順調に売上を伸ばし、開業3年目には、事業計画書の目標であった来客数月150人と月々150万円以上の売上をコンスタントにあげることができるようになりました。

Hanako westやSAVYといった情報誌にも美容特集で掲載され、遠くは東京や岐阜のほうからわざわざ新幹線や飛行機で通ってくださるお客様もいたほどです。

順調に売上を伸ばし安定した収益を上げているつもりでしたが、2008年の9月におこったリーマンショックの影響で、その月から売上が激減。

リーマンショックの影響をモロに受けたお客様が多かったようです。

一気に赤字経営となり、いろいろと経営を見直さないといけない岐路に立たされました。

一旦下がった景気は、なかなか、回復しないであろうとふんだ私は、同年の年末には一年後に閉店してもいいようにと、経営が厳しくなるのを覚悟で、回数チケットの販売をやめ、都度払いのみを受け付けることにしたのです。

悪いときには悪いことが重なるもの。

翌年の5月には、パンデミックインフルエンザが流行。

神戸から感染者がでたということで、芦屋の街から人が消えたようになっていました。

ちょうど去年の新型コロナウィルスが感染拡大したときのように、マスクがなかなか手に入れられなかった時期がありました。

リーマンショック以降、予約数は減りながらもコンスタントに来客のあったサロンでしたが、初めて坊主(売上ゼロ)の日が出た時の衝撃を今でも憶えています。

一時期ではありますが、ちょうど、現在のコロナ禍のような状況になってしまったのです。

さらには、その翌月、母の検査入院初日に点滴によって引き起こされた心筋梗塞。

リーマンショックの衝撃から立ち直っても、次から次へと試練がやってきました。

最終的には、2009年の年末にサロンを閉店し、以降は、隣町にある知人のサロンでベッドをお借りして、お客様の施術をするという形に落ち着きました。

お店を閉店した時は、天塩にかけて育ててきた子供(自分の分身)を失ったかのような喪失感を味わいました。

この時の喪失感も、後の大量出血の原因の一つと考えられます。

子供の頃から見えない世界を信じていました

とくに見えるとか聞こえるとかの能力はありません(しいて言うなら感じるサイキック系)が、不思議と幼少期から、神の存在(SomethingGreat)とも言うべき見えない世界のことを信じてきました。

実家の宗教は仏教ですが、大学でキリスト教を学び、後に、キリスト教のキリストの教えも仏教のお釈迦様の教えも、もとをたどれば、皆同じ、ワンネス(ユングで言うところの集合的無意識)という概念に行き着きました。

また、多神教のギリシャ神話と日本の八百万の神の神話に共通部分があることもしかりです。

そんな私のテーマ曲はユーミンの「やさしさにつつまれたなら」です。

小さい頃は神様がいて不思議に夢を叶えてくれた

やさしい気持ちで目覚めた朝は

大人になっても奇跡はおこるよ

子供の頃と同じように純粋な気持ちで願えば夢は叶うということ。

自分で言うのも何ですが、比較的、願いが叶いやすいほうだと思います。

物欲はあまりないほうですが、物事を願うと、そのモノ自体が手に入ったり(頂くこともあったり、それを手に入れるだけの臨時収入が入ったり)、あるいは、願いを叶えやすい情報や人がすぐに集まります)

目に映る全てのことはメッセージ

見えない世界から私達に知らせてくれるのが、目に映るものだとすれば、たとえ人生で悩んだ時でも、答は目の前にあるということです。

人は、自分が見たいものを見るそうです。

ですから、あえて言うならば、「答はいつも自分自身の中にある」つまり、SomethingGreat=自分自身なのかもしれません。

いつも、大切にしているのは、あれこれ思い悩まずに「直感にしたがって行動する」ことです。

そうすれば、いつかは、目的地にたどりつくことが出来ますし、たとえ失敗したとしても、誰のせいでもなく、自分自身の責任だと自覚できます。

そして、失敗しても恐れません。失敗は成功のもとだからです。

人生の最大の失敗と最大の試練を乗り越えて

半世紀以上生きてきた中で、沢山の失敗をしてきましたが、私の人生の中での最大の失敗は、11年前に病気で倒れたことです。

11年前のある日、私は持病の婦人系疾患、子宮腺筋症が急激に悪化し、突然の大量出血で発熱。

一旦、家の近くの救急指定の病院に夫に車で連れて行ってもらいましたが、検査ののち輸血が必要とのことで直ぐに大きな総合病院へ救急搬送されました。

当時、ヘモグロビンの数値が4.5。(通常は12〜13が正常値)

ことの重大さがわかっていなかった私は、最初の病院で「先生、鉄分の注射か点滴してください」と言ったのですが、その先生に「棺桶に片足突っ込んだ状態や。注射とか点滴のレベルちゃう。直ぐに輸血せんと!」と言われました。

救急搬送された総合病院で、輸血を受ける為の承諾書(かなり、怖いことが書いてあります)にサインをするのを躊躇していた私に、担当の先生が「輸血しないと死にますよ」と言われ、しぶしぶサインをしたのを今でも憶えています。

輸血治療中に眠っていた私は、夢の中で亡くなった祖父と父に会います。ちょっとした臨死体験をした私は、この世に生まれてきた意味と、まだこの世でやり残したことがあることに気づきます。

翌日は、この世に生まれてきたこと、父や母、夫をはじめとするそこまで関わってきた人への感謝の気持ちが溢れてきて、しばらくの間、涙が止まりませんでした。

大人になって、あれほど、号泣したのは後にも先にもあの時だけです。

今、振り返ると、大量出血した原因は、その当時の、私の心の状態がマイナス感情でいっぱいだったからだとわかります。

そして、そのせいで、セルフケアを怠っていたことが引き金となったのです。(健康オタクだったのにも関わらず、エステティシャンの不養生です)

私が、黒い感情でいっぱいになりセルフケアを怠っていたきっかけとなったのは、大量出血する10ヶ月前にさかのぼります。

肝臓の検査入院で入院していた母が、入院初日に点滴によって心筋梗塞を起こしてしまいました。

入院手続きをしに、一緒に病院へ付き添ったものの、入院手続きをした後、私は、仕事があるからと、母を1人にしてしまったのです。

その日から、病院を恨み、入院初日に仕事を優先して、わずか一日でも仕事を休んで、母に付き添えなかった自分自身を責め続けました。

サロンの経営も厳しく「ここから消えてしまいたい」とさえ思っていました。

毎日、黒い感情を抱きながら、職場と家と病院を往復していたのです。

心身ともに疲れ果て、母が入院してから半年後(年末)には、子供同然(分身)とも言える店を手放し、埋めようのない喪失感をしばらく引きずっていました。

当時の私は、自分が抱いていた黒い感情を、吐き出すこともせずに、ずっと溜めこんでいました。

誰かに向かって愚痴をこぼすとか出来たら良かったのですが「人に弱みを見せたくない」という、アホなプライドが邪魔して、お客様の前ではもちろんのこと、家族の前でも、ずっと平静をよそおっていたのです。

自分自身の中にある黒い感情をあえて見ないようにしていました。

でも、私の中の黒い感情は確実に毒となってカラダに溜まっていたようです。

カラダの中にたまりに溜まった黒い感情という毒は、ついに出血となって吐き出したということなんでしょうね。(危うく一時期「ここから消えてしまいたい」と思っていた願いが叶いそうになりました)

この時の大量出血がきっかけで、長い長い更年期症状に悩まされ、ここまで回復するのに10年近くもかかってしまいました。

今思えば、すべては、自分の思いが作ったこと。

この10年間で学んだことは、ものやお金ありきの「地の時代」から次のステージ「風の時代」で生き抜くために(古い価値観を)「手放すこと」でした。

そして、「手放すこと」に必要だったのが、他の誰でもない

自分自身を大切にする(ココロとカラダのエステをする)

ことだったのです。

つづきはこちらからどうぞ

ココロとカラダのエステティシャン HIROKO

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